千年家の歴史    

 滋賀県大津市瀬田 唐橋鎮守龍王宮秀郷社(祭神 大神霊竜王・藤原秀郷公)秀郷、京都宇治田原に住し、俵藤太秀郷(鎮守将軍藤 原秀郷公)と称す。

伝説によると、近江の国(滋賀県)三上山に棲息する大百足(むかで)退治で有名である。承平15年(西暦935年)関東ハ州を平定し、勢いに乗じ京を攻めんとする平新皇将門の反乱秀郷公朝命により是れを討伐した武将を祖とし、9代後胤の進藤権之進義氏を始祖として、現在当主第27代正雄に至る860年間連綿として、その家系が継承されている。即ち、秀郷が平将門を征伐してよリ約200年後、始祖権之進義氏により進藤姓を名乗り、源義経に従い屋島壇の浦合戦に臨む。

 第4代一之進義綱は、建武中興で有名な第96代後醍醐天皇の南北朝時代、鎌倉幕府(足利尊氏)による北朝光厳天皇に勢し、千早・赤坂城の楠正成討伐に出陣する。

 第7代小源太敦景が初めて佐中に住す。現在、朝来市佐中字村坂に墓があり、台石に応永 31年(1424年)の銘がある。(町内の宝篋印塔の中では一番古い。)
 
 
第9代兵勝廣、第10代東太郎壽忠は足利将軍に仕える。第13代吉左衛門正国(1450年代)より、佐中に住居を構えるようになり寛正5年(1464年)式内佐嚢神社行う。
≪この時代に千年家が建築されたものと思われる 〈兵庫県建築士協会会員の談〉≫(1460-1480年頃)

 第22代丈右衛門長廣は、六男四女に恵まれが、長男弥太郎長則は病弱のため家督を三男丈太郎(後、第23代丈右衛門長厚と称す。)に譲る。


 六男俊三郎長政(弘化元年1844年生まれ)は、11歳にして養父郡宿南村 青渓書院 池田草庵に師事するも、文久3年(1863年)の生野義挙に際しては、いち早く養父郡建屋村納座北垣晋太郎(後の男爵北垣国道)【初代北海道長官・京都府知事を歴任し、京都疎水を完成させる。】等と共に参加。後、原六郎と改名し、戊辰戦役に参戦。函館五稜郭で幕臣・榎本武揚等と戦い榎本は降伏、戊辰戦役が終わる。(六郎26歳)
その後欧米諸国に留学し、経済学特に金融銀行論を専攻、33歳で帰朝し、銀行創立経営の傍ら、各地で発電・紡績・炭鉱・造船・ホテル・鉄道等の創業に関与し、実業界に進出。明治・大正時代の日本財界に君臨した渋沢・安田・大倉・古河等と共に「日本財界5人男」といわれた実業界の大物であった。(現在、生家佐中千年家に白御影の胸像がある)


 第25代長治は、山林経営に専念する傍ら、兵庫県山林会副長・帝国山林会・大日本山林会等の要職を歴任すると共に、弱冠27歳にして旧山口村村長に推挙される。

 第26代孝二は、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業終了後、海運界に身を投じ、三井船舶株式会社社長・大阪商船三井船舶株式会社社長・会長として、海運事業の経営に尽力すると共に日本船主協会会長を歴任し、戦後壊滅状態の日本海運界の興隆に寄与するも、昭和48年(1973年)入寂。従三位勲一等に叙せられ瑞宝章を賜る。

 また、孝二妻恵美子は、窪田空穂に師事し、但馬文学誌前編の巻頭を飾る「薄命の歌人」として有名である。千年家前庭の歌碑には代表作「山川の瀬なりのおとにきほふがにに住める河鹿の声たかくなく」が刻されている。(東京大学に文献等多数所蔵)

 以上のような歴史を辿る「進藤家」を、平成2年(1990年)夏、「サンTV]が取材に来町した際に、スタッフの西條遊児氏が初めて「佐中千年家」と呼称し、以後通称として使われるようになった。