『オリジナル・カーター・ファミリー』

「オリジナル・カーター・ファミリー」とは・・・

A・Pカーター(1891〜1960)妻サラ・カーター(1898〜1979)義理の妹、メイベル・カーター(1909〜1978)の3人から成り立っています

A・Pとサラは、1915年結婚、メイベルは1926年、A・Pの弟エズラと結婚「オリジナル・カーター・ファミリー」は誕生しました



「カーター・ファミリー」活動開始

1927年7月31日と記されています

この日、A・Pは、妻サラと、その当時妊娠していたメイベルを説得し、ヴァージニアのメイセス・スプリングスから、テネシーのブリストルまで、オーディションを受ける為、旅する事になりました

オーディションを行なったのは、レコーディング・プロデューサーの「ラルフ・ピア」で、生まれて間もない、アメリカのレコード産業のタレントを探していました

オーディションに合格した「カーター・ファミリー」は、今から、丁度80年前の夏、テネシーとヴァージニアの州境があるブリストルの帽子倉庫に誂えられた臨時のスタジオで、「Bury Me Under Weeping Willow」「Little Cabin By The Sea」[The Storm are on the Ocern」「Single girl Married Girl」「Wandering Boy」の5曲を録音しました

80年後、この5曲とその後に録音された多くの曲は「カーター・ファミリーソング」として、世界中で聴かれ歌い継がれています

『I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes』

友人の640ファミリーバンド中村洋一さんの紹介された悲しいエピソードを交え、紹介したいと思います

この曲は、1929年2月14日、ニュージャージー州キャムデンで録音されています。

APは8人兄妹の長男として生まれました。

家族全員が、バラッドや宗教歌などの民謡をよく知っていました。

APは、はじめ、父親の百姓の仕事を手伝っていましたが、その後線路工夫や果樹の苗木の販売の仕事をしながら地方を旅する間に、故郷についてのうたを作り出したそうです。

サラの家庭は、3才で母親を亡くし、父は、家庭放棄し、子供のいなかった、母方のおばさんの家で、育ちました。

生活は苦しく、貧しかったそうですが、「豊かな谷」と呼ばれているクーパークリークで、おばさん夫婦に暖かく育てられました

あと1ヶ月で17才となる時、APの住む「貧しい谷」と呼ばれるプァーバレーに嫁ぎました。

サラは、どんなに苦しい生活でも、くじける事は無かったそうです。

唄を集めて、旅から旅へと歩き回り、定期収入の無いAPが、何も与えられない時も、何とかやりくりし、決して泣き言は言わなかったそうです。

(1927年、夏の最初のレコーディングの時までに二人の間には、グラディス・ジャネト・ジョーの3人の子供が生まれています)

生活の苦しさは、何も変わらなかった。
むしろ、APが唄を求めて旅に出る機会が増え、経済的不安定が、日常的になっていったが、もっと深刻なのが、サラの心の問題だった。

不在がちなAPに変わって、父方のいとこ「コーイ・ベイ」に、サラの助けになるように頼んだ事が大きなトラブルの始まりだった

サラとコーイは愛し合うようになり、二人はその事をAPに隠そうとしなかった。
APは、大きなショックを受け、サラを許す事は、できなかった。
おじやおばも心配し、二人を引き離す事を決め、コーイの兄弟の病気療養を理由に、1933年2月、コーイ一家は、カリフォルニアに引っ越した。

コーイがいなくなった後も、サラは、おばさんのクーパークリークに戻ったが、APは、決して許す事が出来ず、別居生活が始まった。

しかし、ブリストル・セッションのディレクター、ライフ・ピアーの思惑もからみ、又、生活費を稼ぐと云う現実的な問題もあり、セイラは「カーターファミリー」としての音楽活動を続けました。

現在、私たちの聴くことの出来る録音の多くは、この様な出来事の中で録音されたものです。こんな時に「keep on the sunny side」と歌っていたのは、彼らの強さであり、弱さを自ら立て直そうとする手段であったのでしょうか?

離ればなれになったサラとコーイは互いに手紙を書いた。しかし、手紙はすぐに途切れてしまったし、サラからの手紙はコーイの母親が隠れて処分していたのだった。

サラは、コーイの気持ちが変わったのか判らぬまま、どうすれば良いのか、なす術もなかった。
サラは、全てを失ってしまった。
APとサラの和解の努力もぎくしゃくとしたまま不成功に終った。

1936年10月15日二人の離婚は成立した。

その後も、「カーターファミリー」のビジネスとしての音楽活動は続いた。
そして、1938年、テキサスのラジオ局にレギュラー出演してから、彼らの音楽活動が、アメリカ全土で大きく取り上げられはじめ、私生活の破綻とは裏腹に、経済的には恵まれた日々がやって来ました。
しかし、サラは絶望していた。どうしたら良いのか。

1939年2月のある晩、ラジオの番組のなかで打ち合わせも予告も無しに意を決して
「次の曲をカリフォルニアにいる、コーイ・ベイに捧げます」とマイクロフォンに語りかけた。
APの目前での事であった。そして、彼女は「I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes」を歌った。そして、サラは、コーイを待った

離ればなれになってから、6年、コーイは、その放送を聞き、手紙を隠した母親に、サラと結婚する旨を伝えた。

二人は、1939年2月20日再婚した。
そして、その時、オリジナル・カーターファミリーの活動は終った。

1960年11月7日、APカーターは亡くなった。
葬式の参列者名簿には、APの希望により「妻サラ」と書かれていた。APは再婚しなかった。
APが亡くなるまで、コーイは、APに義理立てし、決してメイセス・スプリングスには現れなかったし、APの前にも現れなかった

1979年1月8日、サラは亡くなった。
サラは、コーイとの再婚後、音楽活動の表舞台に、一切出なかった。
 コーイと住んでいた、キャンピングカーのキッチンでマイ・クリンチマウンテンホームの一節「キャリーミーバックオールド、バージニア、バックトゥマイクリンチ、マウンテンホーム」を口ずさんでいたと云う。

そして、自分が死んだら、メイセス・スプリングスのマウントバーノン教会に埋葬して欲しいと伝えていた。

APとサラは、同じ教会の墓地に眠っている。
二人の墓石には、Keep on the sunny side と書かれた78回転のレコード盤を 模したプレートが置かれている。

サラは、APとコーイの二人に男性を愛した。
そして、APとコーイは、サラと云う一人の女性を愛した。

I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes には、二人の男性を愛した一人の女性と、一人の女性を愛した二人の男性の物語があった。

2002年  Will You Miss Me When I’m Gone?
The Carter Family & thein Legacy in American Music より
640ファミリーバンド 中村洋一さん要訳




Copyright © 2007 グリーン マウンテン ボーイズ All rights reserved