微笑み〜香里&栞
藤沢優
香里〔T〕 拒絶
その日も、いつもと変わらない冬のある日だった。
「香里、今いいかしら?」
いつもの様に学校から帰ると、私は母に呼ばれた。
リビングに行くと、何故かそこには仕事に行っているはずの父の姿があった。
「香里、今から父さんの言う事を…よく、聞きなさい…」
何かを決意したかの様に父が口を開く。
「……」
そして私は、両親から栞の体の事を聞かされた。
私は…頭の中が真っ白になった。
え?何?何の事?冗談、よね?
私の中で浮かんだ様々な疑問は、父の俯いた沈痛な表情と、時折目頭を押さえる母の姿によってすぐに否定された。
母の流した涙がテーブルの上に落ちた時、私の中で何かがはじけた気がした。その後の事を私はよく覚えていない。
気が付くと私は、両親に止められるまで、泣きながら部屋の中で暴れていた。投げられる物は力の限り投げ、割れたガラスで腕を切り、ぶつけた足に痣を作りながら、それでも痛みを感じる事もなくただひたすらに感情のはけ口を破壊行動に求めていた。
何日も、何日もそれは続いた。
流す涙も枯れ果てて、そして私は憑かれたかの様に,病院の栞が寝ているベッドの横に立っていた。
傷付いた私の姿に驚いている栞を前に、いつ感情のスイッチが入ってしまうか分からないまま…私は栞に『事の顛末』を話した。
話し終わった時の栞は、いつもの様に笑顔だった。
「大丈夫よ、栞。神様はあなたを見ているわ。奇跡は起きる」
叶わない、と思いつつも私は栞に希望の言葉を口にした。無理にでも笑顔を浮かべながら。でも栞は微かに首を横に振り
「起きないから奇跡って言うんだよ」
はっきりとそう言った。笑顔だった。
その笑顔が、私には辛かった。
本当は、一番泣きたい筈なのに。
大好きな笑顔なのに、一番見ていたい顔なのに、見ていると知らずに涙が出てくる。辛くなってくる。
限界だった。投げつけられた言葉に耐えている栞を見ている事に私は、もう…耐えられなかった。
好きなのに、大好きなのに…
いなくなると分かっているのなら…
消えてしまうと分かっているのなら…
辛い思いをしなくてはいけないのなら…
私はあなたの存在を消してしまおう
私には妹なんかいない、と
私は、自分の弱さに任せてこう言った。
「栞、私…あなたの姉で居続ける事に疲れちゃった。ねえ栞、私…あなたの姉をやめてもいい?」
泣いて欲しかった。私の事を恨んで欲しかった。酷いよお姉ちゃん、何でそんな事言うの!そうよ私は酷い姉なの、だから責めて頂戴。あなたの笑顔はもう私は辛いのよ。
でも、栞はそんな残酷な言葉にも笑顔で頷いた…
それは責められるよりも、なじられるよりも遥かに辛い事だった。
いつもの冬のある日。
いつもの日常はこうして終わりを告げた。
栞〔T〕 笑顔の理由
私は、生まれた時から体が弱かった。
ううん…正確には『弱い』だけではなかった。
小さい頃からあちこちの病院で色々な難しい装置で検査を受けて、たくさんのお薬を飲んで、それでも最後にはお医者さんは首を横に振り、その度に両親は哀し気にうな垂れていた。
私には何となく分かっていた。自身の体が決して癒える事のない病に冒されている事を…
病室と自宅で養生する日々の間に私の学校生活があった。でもそれは『生活』と呼ぶにはあまりにも短い時間で、思い出も友達も私は手に入れる事が出来なかった。でもそれは幸いだったかもしれない。そんなものがあれば私はこの世に未練を残してしまうから。
多分私は…このままこの世界から取り残されて、飛び立つ事も、夢見る事も出来ないままやがて消えて行くと思う。
でも何も出来ない、何の取り柄もない私にとって、この世の中に傷を残さずに消えて行く事が、私に課せられた唯一の役割だと思っていた。自分の人生という舞台の幕を観客に悟られないように静かに引く事を、私はいつも病室で考えていた。
だから、お姉ちゃんから『それ』を聞いた時、私は不思議と悲しいとは思わなかった。
ただ「やっぱり私、死ぬんだ」という事実を改めて認識しただけだった。
お姉ちゃんは心を何処かに置いて来た様な呆けた様な顔で、それでも無理に笑おうとして、何とも言えない複雑な表情をしていた。
そして「奇跡」という、かなう筈のない悲しい希望を口にするお姉ちゃんに私は笑顔で言った。
「起きないから奇跡って言うんだよ」
その時のお姉ちゃんの顔を、私は忘れる事が出来ない。
死に悲観し崩れ泣く姿を予想していたお姉ちゃんは、笑みを浮かべる私をどう思ったのだろうか?
その後、お姉ちゃんの口から告げられた最後通牒…
私はその言葉にも笑顔で頷いた。うん、お姉ちゃん、いいよやめても。辛いんだよね。
私みたいな妹がいる事が。
でもね…それでも私はお姉ちゃんの事が好きだから…
「でも、私は…それでもお姉ちゃんの妹はやめないから」
その言葉にお姉ちゃんは、返事を返さず背を向けて病室から出て行った。その後ろ姿はとても小さく見えた。肩が…震えていた。
その日以来私は、お姉ちゃんの笑顔を見た事をない…
そして私は一人、病室に取り残された。
病院のベッドの中で、落ちる点滴の雫を見ていると、泣く事を我慢している私の涙がそこから代わりに落ちている様に思えてくる。
悲しくない、と言えば嘘になる。
寂しくない、と言えば嘘になる。
それでも私は最後の、その瞬間まで笑っていようと決めた。
笑っていれば辛い事を周りに悟られずにすむから。
辛いと哀れまれて同情される事の方が、私にはもっと辛かった。
そんな中、突然の退院許可が出た。私にはこれが多分外の空気の中で生きる事の出来る最後だろう、と薄々感じていた。――死へのモラトリアム――そんな言葉がふと浮かんで、自分でも知らないうちに笑っていた。それは心の底からの哀しい笑顔だったと思う。
自宅でお姉ちゃんと暮らせる事に僅かな喜びを見つけ、そしてお姉ちゃんの笑顔が私のせいでもう見られない事に落ち込んだ。
思い出の中のお姉ちゃんは、いつも私に笑いかけていてくれていた。
優しくて、そして温かなその笑顔が私は大好きだった。
だから私なんかの為に、お姉ちゃんが悲しい顔をする事がとても耐えられなかった。
そう、その時の私にとって現実は、辛いもの以外の何物でもなかった。
現実が思い出を裏切るのならば、現実をここで止めてしまえばいい。
今考えると何て浅はかで偏狭的な事を、と思うがその時の私にはそこまで巡らせる余裕なんてなかった。
自らの舞台の幕引きを少しだけ早めるために、そして雪の輝く冬の風景を、消えていく私へのせめてもの餞別として目に焼き付けようと、近くのコンビニへ出掛ける事にしたのだ…
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