契り
藤沢優
夢は人の心を映し出す
心は真実を語り出す
そして…
真実は時として残酷である…
§ 平成十三年 夏 §
七月も後半に入ると、陽射しの勢いは衰える事を知らないかの様に地上に濃い影を焼き付ける。
街の風景は、アスファルトからの照り返し熱で生じた陽炎で微かに揺らぎ、暑い夏を視覚でも実感させてくれる。木々から聞こえる蝉の声も、今が夏である事を弥が上にも感じさせてくれる。
その蝉の声を遠くに聞きながら、往人と観鈴は揺れる波を眺めていた。
天上にある太陽が容赦なく堤防の二人を照らす。
「だって、こうしていれば…ほら、自分の上に雲はある…」
観鈴はそう言うと、日差しを掌で遮りながら空を見上げる。
往人もつられて見上げる。そこに広がるのは澄み渡った青空に漂う雲。
「なのにそこでは、自分の足の下に雲が張り詰めている。雲の隙間からは、海の青が見える。でも、そこまでがどれくらいあるのかもわからない。どこも無限に広がってる。そしてその空では、雲は逆に流れてる。消えた場所から雲は生まれて、生まれた場所に消えてゆく…」
その言葉から想像されるのは、荘厳で幻想的な光景。
しかし往人にはそれがとても哀しい光景に思えた。それはどうやら観鈴も同じらしい。澄んだ観鈴の瞳の色が微かに沈んだ。
「おまえは…誰なんだ?」
「わたし?わたし、神尾観鈴」
観鈴は往人の問いの意図をくみかね、そう答える。
「違う…その夢の中でだ」
「それはやっぱり…わたしだと思う。もうひとりのわたし」
「そうだな。その通りだな…だから、おまえ、空に想いを馳せているのか」
往人は観鈴の言葉をかみしめると、顔を観鈴から逸らした。
別段そうしたかったわけではない。只、観鈴の顔をまともに見れなかったからだ。
『もうひとりのわたし』
もう一人の観鈴、もう一人の存在…
それは一体誰で、一体どういう意味を持つのか。
往人の頭の中で、記憶の片隅がチリチリと痛み出した。
何かが動き出した、と思った。
翌日も往人と観鈴はいつもの堤防にいた。
例によって補習に間に合わなかった観鈴が、次の授業まで往人と時間を潰す。堤防のその場所はもう二人の定位置になっていた。
「もしかしたら、わたし、昔は空を飛べたのかなぁ。ずっとこの空にいて」
そう呟くと観鈴は堤防の上にのぼり、翼の様に両手を広げトテトテと歩き出す。まるで空を飛ぶ前の助走の様に。
一瞬、往人は観鈴がそのままこの空に飛んで行ってしまいそうな錯覚に襲われた。
「おい、危ないぞ」
往人は自分の馬鹿げた錯覚を頭から追い出すと、決して広くはない堤防の上をおぼつかない足取りで歩く観鈴に注意を促す。
「わっわっ!」
案の定、観鈴がバランスを崩す。何とか持ちこたえようとするが、努力空しく堤防下の砂浜に落ちた。
「イタイ…」
観鈴が涙目で言う。往人は軽く溜め息をつくと、制服に付いた砂を払う観鈴へ手を貸し、元の堤防まで引き上げる。バツの悪くなった観鈴はにははっと微笑んだ。
暫く黙って二人、海を眺める。
白く煌めく波が不規則に形を変えながら漂う。空の青と海の青が交わる水平線を見ていると、吸い込まれそうな不思議な気持ちになる。
打ち寄せる波の音、木々からは相変わらずの蝉時雨…
夏の音だけを残して、ここだけ時間が止まった気すらする。
「なあ…」
どれくらい時間が過ぎたのだろうか?
沈黙を破る様に往人は口を開く。
「昨日も、夢を見たのか?」
「うん」
その問いに観鈴は頷く。そして昨日見た夢を訥々と、言葉を選びながら語り始める。
「いつも通り、わたしの体が、空に飛んでる。足の下の雲はいつもより少なくて、海と陸が見渡せた。白い波の線が、陸に押し寄せて、消えたりしてた。自分が、本当に高い場所にいることがわかって、こわかった」
そこで言葉を区切る。微かに唇を噛む。何か感情を押し殺す様に。
「それでね…」
瞳を伏せた。そして少し考えた後、往人の方を見て、言う。
「わたしはそこで悲しんでた。ね、往人さん…どうして、わたし…空のわたしはあんな悲しい思いをしているのかな。あんなにきれいな風景で、すごく気持ちいい風の中で…」
観鈴は首を上げる。昨日と同じ、高く澄んだ空と白い雲がそこにある。
空。
人は古よりそこに憧れ、飛ぶ事を夢見て、そして天翔ける存在を崇拝の対象としてきた。
しかし観鈴の夢の中に存在する『誰か』は空という無限に広がる牢獄に囚われ、終わりのない悲しみの中、漂う事しか出来ない。
空には争いも、苦しみも、憎しみも存在しない筈なのに。
それなのに悲しみだけがその『誰か』の心を満たしているという。
「……」
往人は答えに窮し、黙り込む。
不意に強い海風が吹き抜けた。
「わわっ…」
風を避ける様に観鈴は身体を縮め、髪と制服のスカートを押さえた。
胸元を飾る制服の十字架が日差しを受けて輝く。
その白く強い光に思わず往人は目を細めた。
光の中、夢を見た。
§ 正暦五年 夏 §
夏も盛りを過ぎたが、照り付ける日差しや虫の音、山の彩りはまだ夏の色を失ってはいない。
雨もなく油照りの日々が続き、草木が乾いて悲鳴を上げている。
三人が社殿を出奔してから既に十日余り。
追っ手の気配も一段落し、そろそろ逃げ隠れる事から神奈の母君に関する情報をこちらから追い探す頃合だと柳也は考えていた。とはいえ陽の高いうちに動くのはさすがに得策ではない。だが、動けない時間を無駄に過ごすのも益ないと思い、柳也は持参した書物に目を通す作業を続けていた。
その作業の合間に、ふと息抜きがてら梢の隙間から空を見上げる。
陽は西に傾きつつあるが、それでもまだ雲は高く空は青い。
「ぐあぁ!分からん!」
書物の量の多さと、字を追うという慣れない作業に辟易した柳也は、巻き物を放り出すと、背を伸ばし背後の木に乱暴にもたれる。
と、背を預けた木から不意に小枝が落ちてきた。
柳也は何気なしに太刀を抜き放つ。
キンッ、カチン…
小さな衝撃音と共に小枝が分断され、落ちる。同時に刃を鞘に収めると切羽が音を立てた。
「相変らずの太刀さばきよの」
凛とした声に我に帰ると、そこにはいつからいたのか、神奈が感嘆の言葉をもらして立っていた。
どうやら数日前、市で仕入れて来た胡桃を太刀で一刀両断したのをどこかの陰で見ていたらしい。それ以来、神奈の柳也の太刀さばきに対する見方が少し変わったようだ。
「刀で位をとったというのも強ち戯れ事ではないようだの」
「まだ完全には信じてはくれないのか」
柳也は苦笑し、溜め息混じりに呟く。
「……」
神奈は柳也の側に座ると興味深げに太刀を見つめ、その柄に触れようとする。柳也は反射的に太刀を袖で覆い隠す。
不殺の誓いを交わしたとはいえ、昔は幾多の修羅場で生血を吸ってきた太刀だ。そんな穢れた太刀を神奈に触れて欲しくはなかった。
「武士はやたらに己の太刀を他人に触れさせはしない」
「そうか…」
柳也の意図を知ってか知らずか、神奈はその言葉に素直に従う。
そして、横坐りで少し乱れた裾を手持ち無沙汰に整えながら、改まった口調で神奈は呟く。
「それ程の刀の腕を持ちながら、柳也殿…すまぬな。余の臣下でなければもっと手柄を立て、出世も出来たであろうに」
神奈の口から出たそんな言葉に少し驚きつつも、雰囲気からして決して冗談や戯れ事ではない事を感じ取った柳也は、言葉を選び、言った。
「生憎と俺はその様な事には興味がない。…それにおれは元々令外の官だからな」
柳也は位こそ正八位衛門大志だが、この混乱の時勢に位は意味を持たない。例え位を持っていても下位役職の人間は上層の人間の意向によって簡単に討ち棄てられるのだ。事実、数日前その『意向』によって危うく命を落しかけたのだから。
「それよりも、命を賭けるに値する主に仕える事の方が武士としての生方としては本望だろう」
「『命を賭けるに値する主』とは余の事か?」
その言葉に神奈は顔を上げ、柳也を見る。その瞳に柳也は少し照れながらも
「他に誰がいる?」
と真面目に答えた。
|