雲頂山日記

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生野町の奥座敷、史跡・生野銀山から車で約30分、静かな山郷にたたずむ湯宿の大将の四方山話を少し。
生野渓谷黒川温泉、山の料理、季節の風景などをご紹介します。のんびりした時間や空気が届いたら、ええなあ。

最終更新日:2016/05/12(2012/1/26公開)


黒川と大明禅寺

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(大明禅寺再興)
これより後、殆(ほとんど)二百年、復(また)月菴の衣鉢を継ぐものなし。堂坊頓(とみ)に傾廃す。かつ天文中(1532~1554年)火あり。建宇蕩然、僅に祖堂一宇を余すのみ。
寛永中(1624~1644年)大愚(たいぐ)和尚黒川に入り、月菴の遺跡を訪いその荒廃を悲しみ、慨然(がいぜん)として興復の志あり。生野奉行中野喜兵衛、首としてその挙を賛(たす)く。これにおいて梵宇を経営し、略(ほ)ぼ旧観に復す。慶安二年(1649年)将軍徳川家光、寺領十五石を賜う。謂う所の御朱印なるものこれなり。衆遂に大愚を推して中興の祖とす。大愚名は宗築(そうちく)、武藤氏、濃州武儀(むぎ)(岐阜県関市)の人なり。寛文六年(1666年)敕して号を諸相非相禅師と賜う。
大愚かつて越前藩主松平光通の請に応じ愚堂(ぐどう)と共に往く。光通歓待敬意具(つぶさ)に臻(いた)る。愚堂曰く、太守聡明、恐くはこれ短命ならんと。大愚色を作(な)して曰く、愚堂老耄、叨(みだり)に人を許可す。這(コ)の白面郎、什麼(ナニオカ)識らんと。光通嘆じて曰く、これ真に我師なりと。遂に大安寺を建て大愚を聘して始祖とす。

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大愚すなわち霊峰を美濃大垣より招き、大明寺に主たらしむ。
霊峰名は元奘(げんじょう)、尾張清洲の人。俗姓は土岐氏。父は上総国万喜城主修理太夫。母は小野氏。霊峰幼にして出塵の志あり、年十一洛東祇園妙法院に入り薙髪(ていはつ)し真言を学ぶ。後去りて洛西正法山に至り海山を拝して師とす。霊峰もっとも楞厳経(りょうごんきょう)を尊信し、平生人に示すに多く此の経の旨を以てす。尾張候徳川義直請て名古屋に居らしめ、屡々(しばしば)これに参禅す。義直薨(こう)後美濃に隠る。
承応元年(1652年)大愚の請に因り大明寺に移る。美濃守稲葉正則、幕府に請い台命を以て霊峰を召し、麟祥院(りんしょういん)に主たらしむ。麟祥院は徳川家光、その傅母(ふぼ)春日局の為に経営する所なり。霊峰固辞聴されず、すなわち詩を賦して曰く
  久在二雲林烟樹間一 何圖今破二一生閑一 岩花拂迹莫嘲我 出入隨縁不誓山
遂に出て麟祥院に主たり。後一年弟子鰲雲(ごううん)を薦め代て主たらしむ。
既にして丹波国篠村(しのむら/亀岡市篠町、旧南桑田郡篠村)に法林寺を創しこれに居る。延宝八年(1680年)寂す。年九十一。霊峰大明寺に住する十二年、山房茗談を著わす。かつて人あり、霊峰の肖像を描き賛を索(もと)む。即題して曰く
  只跨爐談食 一生下等僧 安眠雲頂月 点出大明燈

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案ずるに、一書に正保中(1645~1648年)大愚、澤菴(たくあん)と共に月菴の遺蹤(いしょう)を尋ね力を合て大明寺を修理すと云えり。然ドモ寺記其事を載せず。但し瞽搜(こそう)集に
   黒川大明寺仏殿うはふきするとてかしこに行く
  法も末に かたむく月の 菴には 降らぬ雨にも 袖はぬれけり 
所謂(いわゆる)仏殿は祖堂なり。然らば沢庵かつて祖堂を修理し、その後大愚更に梵宇を建設する。

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(羅漢画)
大明寺に羅漢の古画十六幅を蔵す。寺記によれば善月大師の画(か)く所にして、月菴元より携え帰る所なり。万治元年(1658年)、生野奉行中野伝右衛門一睹(いっと)珍賞以て稀世の名品と為し、黄金十六枚を寄付し、以てその装潢(そうこう/(表装)を新たにすと云う。

按ずるに善月、名は貫体、字(あざな)は徳隠(とくいん)、姜(きょう)氏、金華蘭溪登高の人なり。好て羅漢(らかん)を画く。一尊を画く毎に必ず夢に真皃(しんぼう)に応ずるコトを得んと祈る。一夜羅漢、その肉体を出現す。善月跪拝直にその真容を写す。これより画名益ます高じ、梁の乾化二年(912年)成都北門の外に終う事。唐詩紀事等の書に詳なり。

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(山名時熈)
山名時熈の墓は大明寺祖堂中に在り。今、時熈の像を安んずその下即ちその墓なりと云う。時熈は時義の長子。右衛門督に任じ、従四位に叙せらる。時義死後、但馬に在り幕府の命に従わず、幕府その叔父氏清(うじきよ)等をしてこれを討せしむ。時熈遁走し後罪を謝し赦さる。明徳の役(明徳2年/元中8年/1391年)、功あり再び但馬に守護たり。時熈、禅学を修め詩を善くす。その古栢(こはく)に示す詩并(しへい)に小引に曰く
   応永三十四丁未臘月二十一日 承台命(たいめい)開発生野陣 同二十三日 幸先師忌日也
   登山焼香有感 漫(そぞろ)述一絶以奉呈 大明寺住持古栢師兄并諸彦云 撃節多幸
  忽拜詔書陣己開  山川依舊路分苔  歳寒堪喜落成寺  雪裏吹香一朶梅

時熈は足利氏棟梁の臣にして一世の功業伝うべきもの甚だ多し。永享七年(1435年)七月四日卒す。謚して大明寺殿巨川熈公(きくん)大居士と云う。但、山名氏系譜には黒川大明寺に葬る墓域詳(つまびらか)ならずとあり。

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(足立宗次)
宗次入道の墓碑銘もまた祖堂中に在り。宗次は足立氏、左衛門尉と称す丹波国山垣の城主なり。山名時熈に仕え尤(もっと)も器重せらる。食禄三万石。応永十四年(1407年)五月三日歿す。
元禄中足立嘉光と云うものあり、宗次の裔なり。山名矩豊(のりとよ)に仕う。山名矩豊は時熈の後裔。豊国の孫なり。嘉光かつて主命を奉じ大明寺に使し、因て宗次の霊牌を拝す。遂に土田を寄贈し以てその香華の資に供し、また文を寺主江雲に嘱しこの碑を建設すと云う。

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(坐禅石)
坐禅石は村の西北、丸石に在り。地勢幽奥。一道溪水、石を繞(めぐ)りて潺湲(せんかん)たり。月菴の黒川に入るや日夜石上に趺坐し、道を修ると云う。因てこの名あり。盖し行状に山頂高寒、業道に便なるを図(はか)るとはこれを謂うなり。

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参考文献

  • 石田松蔵著『但馬史 2』『但馬史 3』 のじぎく文庫
  • 小坂博之著『山名常熈と禅刹』 楞厳寺(非売品)
  • 太田乕一原著/柏村儀作校補『校補生野史6nbsp;3』『校補生野史 4』 生野町役場
  • その他


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