雲頂山日記

 トップページ  雲頂山日記 ▷ 雲頂山日記番外編-黒川と大明禅寺(1)




生野町の奥座敷、史跡・生野銀山から車で約30分、静かな山郷にたたずむ湯宿の大将の四方山話を少し。
生野渓谷黒川温泉、山の料理、季節の風景などをご紹介します。のんびりした時間や空気が届いたら、ええなあ。

最終更新日:2016/05/12(2012/1/26公開)


黒川と大明禅寺

(1/2) 次へ 

朝来志は明治36年に刊行された兵庫県朝来郡(ほぼ現在の朝来市)の地誌で、その巻三に大明寺のことが記されています。
 朝来志:著作発行者 木村 發/明治36年11月5日発行




  • 底本は昭和48年10月16日発行の朝来志復刻版を使用しました。
  • 底本は漢字片仮名書きで、旧仮名遣いです。
  • 片仮名の読み仮名は底本に付されているものです。
  • 文中の括弧書き及び平仮名の読み仮名は今回付したもです。
  • 年月日に括弧書きで付した西暦はユリウス暦です。括弧書き以外の日付は旧暦です。
    ただし、明治31年(1898年)以降の西暦はグレゴリオ暦です。
    また、南北朝期の元号には対応する朝廷の元号を付しています。
  • 句読点、改行、段落は適宜変更しました。
  • 文中の下線の字句には今回付した注があります。



黒川村(くろがわむら)
東は丹波国氷上郡(兵庫県丹波市)に接し、西は上生野(こうじゅくの)村に隣りし、南は播磨国多可郡(兵庫県多可郡多可町)に界(さかい)し、北は与布土(よふど)(兵庫県朝来市山東町)に連なる。
地勢は東北に三国岳(標高885m)の高峰聳立(しょうりつ)し村の東南境を疆(かぎ)り、西北に青倉山(標高811m)、与布土山あり。山脈重畳して南、鷹巣山に連亘(れんこう)し以て西南境を擁す。東西僅に数町(1町=約109m)、南北三里余(1里=約3.9km)。実に壺中の別天地を成せり。而してその地、海面を抜く実に二百八十六間(約518m)余。是を郡中最高の処とす。
但馬太田文云う新井黒川保(ホウ)、十七町、地頭柏原左衛門二郎と。但馬考に云う保とは、五保なり。中比よりは是も村と斉(ひと)しくなりしにや。御成敗式目(ごせいばいしきもく)には郡郷庄保と云い、神皇正統記(じんのうしょうとうき)には庄園郷保とつづけり。作州(さくしゅう/美作国)に保頭と云うものあり、この国の肝煎りなりと或人の云いしも古詞の遺れるならんと。盖(けだし)是なり。正保三年の記録に余辺(アマルベ)ノ庄黒川とあり。豈(あに)(いにしえ)の余戸歟(か)。享保三年(1718年)の記録には広谷庄に属し猶(なお)余辺庄黒川とあり。
黒川村は黒川寺、簾野(スダレノ)、梅ヶ畑、高路(コウロ)、長野、大外(オオソト)の六部落あり、これを総称して黒川谷と云えり。享和三年(1803年)の村高は八十一石九斗二升五合。

 注(クリックで展開します。)

(大明禅寺開山月菴宗光)
大明寺は村の北に在り、臨済宗妙心寺派にして雲頂山と号す。すなわち月菴(げったん)和尚の創(はじ)むる所なり。
高僧伝及行状によるに月菴、諱(いみな)は宗光、姓は大江、美濃の人なり。母、宝蓋(ほうがい)を持して山頂に踞し朝日に照らさると夢み、覚めて娠(はら)めるコトあり。これより誓いて葷羶(くんせん)を断ち、日々法華経を課せり。嘉暦元年(1326年)四月八日生る。風姿爽抜、目光人を射る。幼にして家を去り、峰翁(ほうおう)を拝して師とす。会う人あり、その母の夢みる所を以て告ぐ。峰翁欣然として曰く、吾宗汝を得て光明盛大ならんと。因て宗光(しゅうこう)と名(なづ)く。
宗光記受日に倍し弱冠の後、祖意の淵底(えんてい)を探り諸方に明師を尋ね、二十六才(観応2年/正平6年/1351年)にしてまた峰翁に謁す。峰翁すなわち一鞭を加う。宗光終夜深慮、黎明頭髪ことごとく白し。
正平二十二年(貞治6年/1367年)秋、但州黒川に入り、その幽奥を愛し錫(しゃく)を駐めて宴座(座禅)し、藤を床にし楮(ちょ)を被(ふすま)とし枯淡(こたん)世と藐焉(ばくえん)たり。未(いま)だ幾ならず毳侶(ぜいりょ)雲の如く臻(いた)る。これを拒めドモ可(し)からず。相共に茅を誅し険を夷(たいら)げ遂に梵宇を成す。因て山を雲頂と号し寺を大明と云う。その大明寺常住の自賛に曰く
  受業峯翁 大謗峯翁 嗣法大蟲 痛罵大蟲
  箇般不孝之子 滅却臨濟正宗 啞 土曠人稀少相逢

またその雲頂山大明禅寺の大仏宝殿、釈迦如来、ならびに二尊者安坐点眼の偈(げ)に曰く
  奇哉一茎茆艸上 忽現丈六金身相 巍々坐断雲頂山 堂々雄勢圧万象
  乃以筆点一点云 双眼点開日月明 人天改観増瞻仰 象宝荘厳不思議
  万徳円満絶度量 此是仏事門中 一期応化底様 諸人還要知
  有正法眼蔵 万古流通麼 良久云 迦葉擎拳 阿難合掌

康応元年(元中5年/1389年)三月二十三日遷化(せんげ)す。年六十四。山名右衛門督時熈(ときひろ)、縷々(るる)奏請する所あり、因って敕(ちょく)して諡(おくりな)を正續大祖禪師と賜う。盖(けだ)し応永十三年(1406年)なり。

 注(クリックで展開します。)

大明寺の旧記によれば稍々異同あり。月菴再び峰翁に見(まみ)ゆるの後、禹域(中国領土の汎称)に渡り宗要仏意を専得して帰朝し、黒川に隠れ石上に坐する数月、僧俗伝聞、帰依雲の如し。丹波国山垣(やまがい)城主足立治郎左衛門尉宗次、月菴を尊崇し黒川五里四方の地を寄附せんと請う。月菴その志を嘉みしこれを許す。かつ曰く、我かつて大元に遊び温州大明寺に於て祇園精舍の霊土を得たり。秘蔵以て今に及ぶ。今これを足下喜捨の地に放下し、凡そ善男善女の詣拝するものをして仏果を証ぜしめんと。宗次感泣、これをその主山名時熈に聞かす。時熈すなわち宗次を介し月菴に謁し深くその高徳に感じ、大(おおい)に土木を興し、梵宇を経営し、また千石千貫の地を寄付し以て寺領と爲す。既にして時熈、宗次と皆就て入道し、時熈は嬾眞(らんしん)居士と稱し後巨川居士と改め、宗次は宗次入道と称すと云う。

 注(クリックで展開します。)

(月菴以後の大明寺)
月菴既に入寂し弟子大有(だいう)、師の遺命を奉じ美含郡(みくみぐん)円通寺より移りて居る。教化の妙、その師に讓らず。大有名は理有(りう)、姓は金氏、大觀(たいかん)禪師と号す。奥州の人なり。大有かつて月菴に謁す。月菴すなわち筆を援(と)り書して曰く
  咄(トツ) 是甚麼(イカン) 五台有曼殊 小林無達磨 ト
以てこれに与う。またかつて為めに道号を撰み命じて大有と云う。因て偈を授く。曰く
  剛健文明徳応天 中心柔易道其全 譬如巨海含群象 不讓小流呑百川
大有、後百丈山(ひゃくじょうさん)大智寺を城州(山城国)に創む。因て弟子笑堂(しょうどう)を召して大明寺に居らしめ、自ら大智寺に移る。

笑堂名は常訢(じょうきん)、姓は橘氏、摂州兵庫の人。いわゆる円応大機禅師これなり。かつて一僧あり、天橋文珠を拝す。笑堂偈を作てこれを送る。曰く
  胸中自有活文珠 若渉多岐天一隅 好去長江千万里 丹陽風物古今無 ト
後その創する所、濃州鵜沼の大安寺に移る。盖し応永(1394~1427年)、永享(1429~1441年)の際なり。

 注(クリックで展開します。)

 上へ戻る



(1/2) 次へ 









やまびこ山荘

〒679-3341 兵庫県朝来市生野町黒川508  電話:079 - 679 - 2908
 (お食事、ご宿泊等すべて予約制です。ご予約は電話でお願いいたします。)



Copyright(C) 2007 Yamabikosansou. All Rights Reserved. 禁無断転載